大井川が引いた、東西の分け目
私は島田市を、大井川という一本の川が引いた地理的・歴史的な分け目として見ている。江戸時代、この川は架橋を禁止され、人足による川越制度が敷かれた。雨で川が増水し川止めになると、両岸の嶋田宿と金谷宿は「さながら江戸のよう」な賑わいを見せたという。1879年に蓬萊橋が架けられるまで、この制度は続いた。
その後、戊辰戦争で失業した将軍警護隊たちが、市南部の初倉・金谷地区から牧之原台地へ渡り、茶園の開墾を始めた。今、牧之原台地は全国有数の大茶園地帯となっている。つまり、島田の茶は、江戸の防衛という歴史的偶然から生まれた産業なのだ。
川越の歴史が、米と茶を育てた
島田に寄付すると届く 金芽米 は、その歴史の上に立つ一品だ。大井川の両岸で育まれた農業の営みが、今も米として食卓に届く。無洗米という形で、現代の暮らしに合わせた姿で。

東海道の宿場町として栄えた島田は、単なる通過点ではなく、川越という労働と人の流れが生んだ町だ。その町で作られた米は、宿場の時代から続く、人と土地の関係を映している。
返礼品として届く日用品の トイレットペーパー や 香水付きのシャワートイレ用ペーパー も、現代の暮らしを支える品として、島田の産業基盤の多様性を示している。製紙業も、この地域の重要な産業だ。

大井川を越えることができなかった江戸時代の旅人たちは、この町で何日も足止めされた。その時間の中で、島田は宿場として、そして後には農業地帯として、独自の産業を育ててきた。寄付して届く米は、その長い歴史の現在形である。