日光街道の宿場が、米菓の町になるまで
草加は、江戸から数えて二番目の宿場町だった。1630年、江戸幕府が正式に伝馬宿として認めた時から、この町は旅人たちの足が止まる場所になった。日光詣での往来が絶えず、宿場の周辺は水田地帯。稲作が盛んだった。
その米と、旅人たちの需要が出会った時、せんべいが生まれた。焼いて日持ちさせた米菓は、旅の携行食として、また土産として、宿場町の名物になっていった。1932年に組合が組織されると、「草加煎餅」は組織的なPRを展開し、戦後の復興を経て、1970年代には全国的な知名度を得た。
今、その歴史は返礼品の中に息づいている。
旅人の時間を、家の食卓へ
献上せんべいは、選べる個数で届く。3箱から10箱まで、自分たちのペースで楽しめる。堅焼きの醤油味は、かつて旅人たちが口にした味わいの系統を引く。おつまみとして、あるいはお茶請けとして、食卓に置かれた時、それは単なる菓子ではなく、宿場町の時間が家に入ってくる瞬間だ。

同じく返礼品の中には、浦和レッズ公式の草加せんべいもある。地元のスポーツチームとのコラボレーションは、古い町が今も生きていることを示す。キリン一番搾りに合うという設定も、現代の食卓の風景を想定した、宿場町の米菓の新しい役割だ。

高度経済成長期に人口が爆発的に増え、松原団地が造成され、東武線と地下鉄の直通運転で都心への利便性が高まった。草加は急速に都市化した。だが、駅周辺には江戸時代の面影を残す商店街が今も広がり、旧日光街道沿いには草加松原が残る。
せんべいは、その歴史の継続を、最も素朴な形で伝える。米を焼く。塩辛く、あるいは甘く。日持ちさせる。旅人から現代の食卓へ、同じ手法で、同じ味わいで。
ムアツマットレスのような高額返礼品も用意されているが、草加を知るなら、やはりせんべいを選ぶ価値がある。それは、この町が何であったか、そして今も何であるかを、最も直接的に伝えるものだからだ。
